室町中期から後期の書写。「真清田宮御縁起」として巻子本上下二巻が伝わる。当社神主佐分清圓は「神記」と称して尊んだ。著者は正徹とされる。当社のご祭神を「国常立命」として伝える。また東西神宮寺の存在をもって当社を尾張一国の一宮ではなく、日本全体の総一宮である説を掲げる。諸国一宮巡拝が盛んになる中世期にあって、当社造替事業に関連して主張された説であろう。
享保18年(1733)江戸時代の真清田神社第三代神主、佐分清圓(さぶりきよつら)が編纂した当社の縁起、社誌。八巻六冊からなり、内容は祭神・末社・旧蹟・神器・宝器・祭祀など部類を分け詳述されている。今日残存しない遺構、宝物も伝える貴重な資料。
享徳4年(1455)当社が炎上し、同年六月その重修募財のための牒状。中世期の西国三十三ヶ所巡礼にみられるように遠隔地参詣の流行は諸国一宮巡拝にも影響を及ぼした。当社造替事業にあたり所謂「勧進聖」が当時の物詣での風と相俟って全国を行脚、当社への勧進を勧めたもの。





